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   47年前の今日、1962年2月6日は私にとって生涯忘れることのできない日です。1月末から2月初旬にかけては、大学生にとって期末試験の真っ最中であり、日頃はサークルだ、学生運動だ、デートだと遊び呆けている(?)学生も、この時期ばかりは勉強のマネゴトをしたものです。特に当時の一流企業といわれる会社は、3年までの成績だけで書類選考をしていたので、皆必死でした。「優」の数が25科目以上というのが、選別ラインとされていたので、2年までの成績が振るわなかった学生にとっては文字通り、「一流大会社」に入れるか否かを決める「一生一度」の学年末試験だったわけです。
 
 そんな多忙(?)な日々を過ごしていた1月下旬のある日、学内の各教室のドアに「R・ケネディ氏講演と討論会」の案内ポスターが一斉に張り出されました。試験勉強に集中していた自分にとっては、何か「?」という感じを受けるポスターでした。「日本の青年学徒に訴う」来聴歓迎 ・・・日本における唯一回の公開講演です・・・という大げさな表現に何か違和感を覚えると同時に、当局側のアセリとオゴリを感じました。
 
 私はその頃、早稲田大学第一政治経済学部学友会(学生自治会)の委員長をしていました。「60年安保」という大きな高揚期が終わり、学生運動も潮が引くような衰退期を迎えていたときでした。
 
 日米安保条約の改定に米当局の「アジアへの軍事的進出」の意図を強く感じ、岸内閣の「戦前体制への復帰」の姿勢に危機感を抱いた、少なからぬ国民は、日本歴史上初の大衆運動、国民運動を展開しました。岸内閣を退陣させ、その後の米当局の「アジアへの軍事的進出」路線に大きな「制約」を与える「民衆運動」でした。
 
 そんな国民大運動も終わり、日本の学生運動も停滞期、衰退期にあった時期をねらって、米国大統領ジョン・F・ケネディ氏の実弟である司法長官ロバート・ケネディ氏が日本に乗り込んできた。そんなふうに私は受けとめました。しかも、日本の学生運動の拠点の一つである早稲田大学に出向いて、学生との公開討論に応ずるという「大胆な意図」も感じました。
 
 開拓者魂を受けつぎ、「フロンティア・スピリッツ」を最高の規範とするアメリカの「建国の精神」「アメリカ民主主義」を携えて来日し、早大で学生との公開討論を強く希望したというR・ケネディ氏の意気込みに何か「感じるもの」が私にはありました。当面の試験勉強は最小限に抑え、R・ケネディ司法長官の学生との公開討論に「しっかりと」応ずるのが学友会委員長としての私の使命ではないかと「腹をくくり」ました。
 
 R・ケネディ氏が学生との公開討論会を希望しているのであれば、学生側は「公開質問状」を事前に準備し、広く都内の学生にも討論会への参加を呼びかけようということが、学友会内部の打ち合わせで決定されました。
 
6項目にわたる公開質問状は一晩で書き上げました。
 
 前文では、アメリカ合衆国の建国の歴史から学び、英国との独立戦争を経て勝ち取った「自由」と「独立」の精神をたたえるとともに、以下の6項目の事項を質す内容です。
 
① 沖縄県民の祖国復帰の願いは、すべての日本国民の願いです。この一致した切実な声に対して、率直に回答されたい。
 
② 「わだつみの悲劇」をくりかえさないためにも、日本国憲法第9条の立場からも日米安保条約の破棄と貴国軍隊の本国引き上げが求められています。日本の「中立化と完全な独立」について、あなたはいかなる考えを持っておられますか。
 
③ 米政府は「アメリカ共産党とその同調団体を外国の手先として登録を強制し、登録を拒否する者に対して1日1万ドルの罰金を課す」と決定したと報道されています。「信念を処罰する」ことを禁じた米国憲法の理念からいっても、多くの批判があなたに集中しています。この問題の最高責任者である司法長官としてこの批判に答えていただきたい。
 
④ 公式の席上で、「西ベルリンの自由を守るためには核戦争も辞せず」と発言されていますが、現在の核戦争が人類になにをもたらすかを十分承知の上で、十分考えた上での発言なのでありましょうか。
 
⑤ ケネディ政権は、CIAを使いキューバ人民共和国に対する武力干渉を行ったことは世界周知の事実です。米国政府は、他国がその住民の意思に基づいてさまざまな政治制度に基づく国家を建設することに同意できないのでありましょうか。
 
⑥ UPI通信は「南ベトナムでの戦闘にアメリカ正規軍が、直接参加している」ことを報じています。これがもし事実であるならば、米政府は民族解放闘争に公然と干渉する方針を決定しているのでありましょうか。これは、諸国民の独立を保障したアメリカ独立宣言といかなる関係にあるのでしょうか。あなたの責任ある回答を求めます。
1962年2月6日
アメリカ合衆国司法長官 ロバート・ケネディ殿
 
 公開質問状を書くにあたり、心に留めたことが二つあります。
一つは、「事実をならべて、道理を説く」という姿勢を貫くということです。二つ目は、米政府の実力№2といわれるR・ケネディ氏を大隈講堂に迎えての公開討論会の場なので、決して「礼を失した」内容や行動はとらないということです。
 
 一つ目の「事実をならべて、道理を説く」という姿勢は貫くことができました。質問状の原稿を印刷会社に持ちこんだ時、5,000円の予算しかないので、5,000枚刷って下さいと頼みました。原稿に目を通した印刷会社の社長は、これはいい内容だ!印刷代はいらないから必要な枚数だけ刷ってやると言ってくれました。ご厚意に甘えて3万枚刷ってもらいました。その公開質問状を当日の朝、都内の主要ターミナル駅や連絡の取れた大学構内で配布しました。
「言葉が人の心を動かし、人の心は世の中を動かす」ということをほんの少し実感することができた体験でした。
 
 二つ目の「礼を失した」行動は決してとらないという点では、いささか反省する点もありました。なにせ3万枚の質問状を駅頭や主要大学の構内で配布したのですから、開会の3時間も前から大隈講堂前は人で埋まり、左翼学生や右翼学生は勝手に「アジ演説」やミニ集会を始めていました。R・ケネディ氏歓迎日本委員会の中曽根康弘委員長も地元群馬県から「青雲塾」のメンバーを200人程度動員したと後で聞きました。
 
 右翼(?)も左翼も動員合戦をしたわけですから、会場内は開演前から騒然としていました。一番バッターに指名され壇上に招かれた私は、「沖縄の祖国復帰」を鋭くせまりました。会場内は「ケネディ、ゴーホーム!」「沖縄をすぐ返せ!」の怒号やヤジの応酬で大混乱となりましたが、最後は「都の西北」の大合唱で「無事」に終わりました。
 
 駐日大使だったライシャワー氏の回顧録によりますと、左翼学生が大量動員をかけ、公開質問状を準備しているとの警備当局の情報を入手していたので、開演直前まで出席中止を検討したようです。「敵に背中を見せるわけにはいかない」とR・ケネディ氏が決断し、大隈講堂に乗りこんできたのが事の真相のようです。文字通り「敵ながら天晴れ」と強く感じました。
 
6日間の訪日のあいだ、行き先々、会う人ごとに「沖縄返還」をせまられたことを大統領に直ぐに報告したと聞いています。それから10年後に沖縄の「祖国復帰」は実現しました。「戦場で失ったものを、テーブルの上での交渉で取り戻す」ことは極めて困難なこととされています。沖縄県民のねばり強い復帰運動と国民の返還運動が実現させたものでしょう。私も、いささかなりとも沖縄の祖国復帰のお役に立つことができたかと、誇りに思っています。自己宣伝になったことをお許し下さい。
 
 不動産との関連で蛇足をつけ加えれば「不動産の取引で失ったものを、交渉(訴訟等々)で取り返すのは極めて困難だ」ということです。取引でだますような相手は、姿をくらましますし、たとえ訴訟で勝っても、弁済する資力がない場合が多いからです。取引や物件の判断でお客さまをしっかりとサポートするのが、私どもの使命であると信じて、日々の仕事を続けています。また「自己宣伝」になりました(*^-^*)
 
 
 
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  不動産鑑定士として不動産に関わる仕事を始めて40年近くになります。不動産鑑定士の二次試験に合格してすぐに(財)日本不動産研究所の本所(東京、虎ノ門)に修習を兼ねて勤務しました。30才を過ぎていましたので、年齢制限があり、入所は難しいと聞いていたのですが、故天野光晴代議士(元国土庁長官)の強い推薦もあり、なんとか入所することができました。面接では、天野先生との関係を根ほり葉ほり聞かれました。先生の子息と中小企業診断士として親しくさせていただいていること、先生の中学生のお孫さん2人を私の家内が英語教室で教えていたこと、天野先生のご自宅は我が家から数十メートルの近所であることなどを説明したことが懐かしく憶い出されます。後で聞いたことですが、入所試験に先だって、当時の国土庁の官房長が霞ヶ関から虎ノ門までわざわざ出向いて、高橋という者が不動産研究所に入所を希望しているので「よろしく」と天野先生の伝言(指示?)を伝えていただいたそうです。人の世話というのは、そこまでするのかと大いに勉強になりました。
 
   入所する前から思っていたことですが、「不動産」という言葉のイメージが、わが国では決して良くない、はっきり云えば悪いイメージを連想させるものでした。不動産研究所の先輩や同僚からも不動産研究所などといっても世間一般の人にはなかなか理解してもらえないといったボヤキもよく聞かれました。その頃は、「日本不動産銀行」という銀行がありました。その後、なぜか「日本債券信用銀行」と名を変え、今は合併して「あおぞら銀行」となっていますが、イメージも内容も良くなかったからでしょうか。「不動産」という言葉のイメージが良くないのは、決して言葉に責任があるのではなく、不動産に関わってきた関係者全体の行動、実績を反映したものであり、その責任は私も含めて関係者総てにあると思います。
  
   そこで「不動産」という言葉が、いつ頃から日本で使われ始めたのか、その語源はどこにあるのかを調べてみました。わが国で「不動産」という言葉が使われたのは、明治29年制定の民法第86条第1項「土地及ヒ其定著物ハ之ヲ不動産トス」という規定が初めてのようです。しかも「動産」という表現・言葉と「対」として使われました。それまでは「地所」「土地」などという言葉で表現していたようです。ちなみに英語では(real estate)ですが、ドイツ語では(Immobilien)、フランス語では(Immobiliers)、いずれも「動かないもの」、「不動のもの」といった意味のようです。フランス語の直訳として「不動産」という言葉が「作られた」ようです。わが国の民法典がフランス法やドイツ法(大陸法)の強い影響を受けて制定されたことも、よーく解りました。独りよがりの解説になったことをお許し下さい。

 

丁度49年前の今日、1959年11月27日、日米安保改訂阻止のデモ隊は国会議事堂前の広場を埋めつくしていました。その数およそ2万人。都内各大学から参加した学生は1万人ぐらいだったでしょうか。血気盛んだった自分も全学連のデモ隊の中にいました。
 
前夜、早稲田大学全学共闘会議の拡大会議が「極秘」に開かれ、国会包囲デモの作戦・戦術が決められました。早稲田大学からは1,000人程度の学生を動員し、地下鉄「国会議事堂」駅から、警備する警官隊の背後をつく「奇襲作戦」で警備陣を撹乱する。相手側の混乱に乗じて、国会正面広場まで進み、「日米安保改訂阻止」の大集会を「成功」させるといった「極秘作戦」だったと記憶しています。
 
開通して間もない地下鉄の駅から1,000名を超える学生デモ隊が突然警備陣の背後に現れるという「奇襲作戦」は図に当たり、警備陣は「混乱」したかに見えました。しかし、相手側はさすがはプロ集団、ただちに隊形を整えると国会正門前に通じる道路に阻止線を張りました。
 
しかし何か様子が変でした。普段なら、ヘルメットに盾、乱闘服で完全武装している機動隊が前面に出てくるはずなのに、その日は制服、制帽の「お巡りさん」が隊列を組んでいたのです。しかも何となく田舎くさいし、年齢も父親に近い感じで、デモ隊側もホットしたというか、親近感を覚えるような警官隊でした。
それもつかの間、国会前広場目ざして強行突破しようとする学生デモ隊と警備陣は、押し合い、もみ合いの小競り合いを繰りひろげました。
 
そんな時です。自分の靴が何か変なものを踏みつけたことを感じとりました。学友とのスクラムを解き、足もとの異物を拾いました。何と本物の拳銃が落ちていたのです。一瞬、これは「ワナ」「謀略」ではないかとの思いが頭をよぎりました。しかし、それもほんの一瞬のことで、すぐに大声で目の前の警官隊に呼びかけました。
 
「オーイ、大切な商売道具を落としたのは誰だー!」
「拳銃を失くしたらクビになるゾー!」
 
ムキ出しの拳銃を高くかかげながらの呼びかけに目の前の警官隊は、皆が自分の腰に手を当てて「確認行動」をとったようです。落とし主はすぐに現れました。すぐ近くにいた50代の田舎のオジサン風の警察官が、「自分が落としたらしい」、「ありがとう」と小さな声で言って手を出してきました。学生と警官隊の間に、ほんの一瞬でしたが、和やかな雰囲気が流れました。
小競り合いも小休止となり、警備陣とも私的な会話が交わされました。埼玉県警から急遽派遣された混成部隊で、普段は交番勤務の普通の「お巡りさん」が大部分とのことでした。
 
その後学生を中心としたデモ隊は国会議事堂の中庭に「乱入」し、翌日の新聞では散々たたかれました。この「国会構内乱入事件」も何か謀略のニオイがする事件でした。
 
50年も前のことを書く気になったのは、若気のいたりという側面はあったにしても、時代が問いかけている問題に真正面から向き合い、決して逃げなかったというその姿勢だけは、今でも間違っていたとは思いませんし、むしろ誇りに思っているからです。
この歳になって、自分が体験したことも含めて本当の思いを、本音で語り、書き残しておくのも良いのではないかという心境になりました。
 

「本音言三」これからも発信を続けます。自分の学生時代のことは「悪行」も含めて個人のホームページ(http://www10.plala.or.jp/tika-infre/toukanannai.html)で公開しています。ご笑覧下さい。

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HN:
高橋雄三
性別:
男性
職業:
不動産鑑定士
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