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親の代を含めると、3軒の家作りに深く関わってきました。
 
いずれも、敷地と資金の制約があるなかで、どんな間取りが良いか、大工さんは誰に頼むかといったことが主な検討項目であり、一定のワクの中でのプラン作りであり選択でした。
 
それでも、自分や家族が住む家のプラン作りは楽しいものであり、高校3年の時に親と義兄が家を建てた時は、受験勉強をほったらかして、建築現場を毎日見にいったことがなつかしく憶い出されます。
 
現在住んでいる笹谷の家は、県住宅供給公社の建売住宅であり、敷地と間取りを選択する程度の自由度しかありませんでした。その後、2度ほど増改築しましたが、敷地の制約もあり、2階建てにして部屋数を増やすのが精一杯でした。
 
その頃からでしょうか。将来、敷地の制約と資金の制約なしで、理想とする家を建ててみたいとの「夢」をもつようになりました。
 
不動産鑑定士という仕事をするようになってからは、ひと様の建てた家や土地・建物を第三者の目で見る機会が多くなりました。
 
それぞれの家・住宅には、建て主の住宅観・人生観あるいは財力が何らかの形で反映されていることも少し分かりました。
 
しかし、いずれも、敷地と資金という現実的な制約のなかでの「夢の実現」であり、何かもの足りないものを感じることが多かったことも事実です。
 
いつのまにか、敷地と資金の制約のない理想的な住居を建てて住んでみたいという、夢のまた夢のような思いは忘れかけていましたが、ふとしたことから、夢の一部あるいは半分ぐらいは実現できるのではと考えるようになりました。
 
それは、自分の理想に近いリゾート施設を探し出し、そこにある程度の期間滞在することで実現できることに気づいたことです。
 
仕事がら、国内各地のリゾート施設は多く見てきた方でしょう。営利目的まる出しのホテルや施設が多い中で、地元の名士・名家が最高の環境・景観のロケーションを見い出し、金に糸目を付けないで建物や施設を作った「作品」も少なくありません。
 
こんな「作品」のなかには、自分の人生観や自然観に一致するだけでなく、新しい発見をさせてくれるものもあります。
 
理想とする住まいを、土地とお金の制約なしで建ててみたいという夢は実現できそうもありませんが、理想に近いホテルや旅館、リゾート施設に一定期間滞在することは十分に可能です。
 
時間とお金の制約があるなかで、せめて年に2週間程度は、夢を実現させてくれるホテルや旅館でのんびりと過ごす、これは実現できそうです。
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「親孝行、したい時には、親はなし」と、よく云われることです。
 
 世間一般では、子供というものは、親に心配をかけたり、迷惑をかけたり、金銭をせびったり、騙したりするのがあたりまえなことと受けとめられています。
 
 親の方も、何才になっても、子供のことをアレコレ心配するのは、世の常です。
 
 私の友人の中には、還暦(60才)を過ぎても定職を持たず、親のスネを齧っている人がいます。
 
 親はこの息子のことが心配で、100才を過ぎても、まだ死ねないと、元気にがんばっています。
 
 この友人は、ある意味では「親孝行」なのかもしれません。
 
「親不幸」の最たるものは、やはり親より先にあの世へ行ってしまうことではないでしょうか。
 
 私の兄は60才過ぎに日頃の不摂生がたたって他界しました。
 
 母親は90才を過ぎていましたが、長男を失ったことの嘆き・悲しみ、ストレスは大きかったのでしょう。一年後に後を追うように他界しました。
 
 人間の健康には、ストレスが一番悪いようです。ストレスが免疫力を弱め、命を縮める最大の原因のようです。
 
 毎年、年頭に一年の目標を立てます。その第一番の目標が、「健康第一の生活に徹する」ということであり、この5年間ぐらい変わっていません。
 
 ストレスを発散・解消するため、週に1~2回のテニスを楽しんでいます。
 
 しかし、ややもすると、ゲームに夢中になり過ぎたり、勝負にこだわったりして、体に過大な負担をかけたり、ストレスを溜め込んだりしがちです。
 
 今年は、ちんたらテニス・お笑いテニスに徹しようと心に言いきかせています。
昨日、10月16日は父の命日です。
 
父は66年前、昭和20年(1945年)10月16日、インドネシア・ジャワ島のスマラン市で没しました。
 
日本の敗戦(ポツダム宣言受諾)がその年の8月15日ですから、戦後に「戦死」したことになります。
 
太平洋戦争の戦勝国であり、旧宗主国であったオランダ軍の上陸・再占領に備えて、インドネシアの独立を目ざす勢力が、日本陸軍の武器・弾薬を手に入れるべく決起した「スマラン事件」で殉難したわけです。
 
軍属としてスマラン市の鉄道運行に係わっていた父は、独立を目ざす決起部隊に連行される際に、「話せば分かる」と自ら進んで「人質」となったと人伝に聞いています。
 
五・一五事件(昭和7年)の犬養毅首相が海軍青年将校団に襲撃された時の言葉が「話せば分かる」だったことは有名ですが、その当時は、どんなに敵対する相手であっても「話し合えば分かりあえる」という社会通念・共通認識があったのでしょうか。
 
殺気立つ将校らに囲まれながら犬養総理はその名の通り、「毅然」と対応し、「話を聞こう」と応接室に案内したと伝えられています。
 
総理官邸に裏口から侵入した一団が、「問答無用、撃て」と銃撃したと伝えられています。
 
政治家たるもの、一国の指導者たるものは、常に命を懸ける覚悟が求められるわけで、その覚悟さえあれば、どんな場面でも平静に対応できるということでしょうか。
 
父は中部ジャワ陸輸局の同僚ら50人と共に連行され、対オランダ独立戦争に備えるべき「武器・弾薬争奪戦」の犠牲となったようです。
 
連合国に無条件降伏した日本軍の武装解除を、オランダを含む連合国側が行うのか、独立戦争に備えて、インドネシア側がその前に日本軍の武器・弾薬を手に入れるのかをめぐって、鋭い対立と大きな行き違いがあったようです。
 
死を前にして、「人質」として収容された部屋の壁に「大義に死す 大君万才」「インドネシアの独立を祈る 万才」と血書が残されていたということです。
 
立場は違っても、どんなに追いつめられた状況でも、民族の独立、インドネシアの独立という大義の立場を貫き通したこの「人質一同」は立派であったのではないでしょうか。
 
私の父も、その一員であったことを心から誇りに思います。
 
事件から半世紀すぎた1990年代の後半になって日本・インドネシア双方の関係者の努力でスマラン市郊外に「鎮魂の碑」が建立されました。
 
いつの日か、スマラン市を必ず訪れ、日本に残された5人の子供と妻は、戦後の混乱期をしっかりと生き抜いたことを報告するつもりです。


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プロフィール
HN:
高橋雄三
性別:
男性
職業:
不動産鑑定士
自己紹介:

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