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米国のケリー国務長官とヘーゲル国防長官が今月来日した際、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れ、花束を捧げて約15秒間黙祷したと報じられています。
外国を訪問した要人は、「無名戦士の墓」に参拝することが、国際的な儀礼の一つでもあるわけです。
20数年前に、ベトナムを訪れ、ベトナム外務省に勤めるズオン氏の案内で1週間ほど旅行したことがあります。
ズオン氏は北朝鮮の金日成軍事総合大学を卒業した後、早稲田大学政経学部に2年ほど留学した経歴のある、日本語の堪能な外交官です。
早大OBだという縁で、「早大OBベトナム都市計画視察団」の受け入れ役を務めたのでしょうか。私も視察団の一員としてベトナム各地を巡りました。
世界の歴史上初めて、「強大なアメリカ遠征軍」を敗北させたベトナムには強い関心を持っていましたので、私にとっては、「政治的な学習」の時間でもありました。
バスによる移動の時間が長かったので、ズオン氏とはじっくりと話をすることができました。
氏は体格が劣っていたので、兵役には服さず、従軍記者として「抗米解放戦争」に参加したとのことでした。
道中、機会があれば、ぜひ、「無名戦士の墓」を参拝したいとお願いしていたのですが、なかなか実現しません。
よくよく考えてみれば、ベトナム全土が戦場となり、1960年から75年のサイゴン解放までの15年間の犠牲者の数は、南北合わせて100万人を超えていたのでしょう。
フエ市からダナン港に向かうバスの中だったでしょうか。ズオンさんが墓地らしい一角を指して「あそこに見えるのは、この地域で犠牲となった解放戦線戦士の墓です」と教えてくれました。
バスの中から、そっと手を合わせました。わが国の寺院墓地の一角にある、無縁仏の石碑を積み上げた「小山」のように見えました。
ハノイ市にも、ホーチミン市にも、国としての「無名戦士の墓」は建立されていなかったようで、私の願いは実現しませんでした。
旅行中に、ズオンさんからは多くのことを学びました。「人民解放軍」が実質的に支配する中国は、民衆レベルの反対運動や反乱があったとしても、10年や20年は「統一国家」を維持できるのではないかとの見通しや、その理由についてもレクチャーを受けました。
帰途につく前の晩だったでしょうか。メコン河に浮かぶ小舟の上で、プロフェッサー・ズオンを囲む「特別講義」を日本側のたっての希望で催しました。
先方が手配した貸し切りの小舟レストランには、ズオン氏以外にはベトナム側随行員は同行していませんでした。
つまり、ズオン氏は、誰にも気兼ねすることなく、本音で語れる場をセットしてくれたわけです。
「経済建設」の難しさや「解放戦争の秘話」を3時間余り拝聴できた特別な時間を過ごすことができたわけです。
話の中で、抗仏戦争に決着をつけたディエンビエンフー包囲戦の総指揮官であった、ボー・グエン・ザップ将軍についての秘話が出てきました。
ボー・グエン・ザップ将軍は、実は、黄埔軍官学校で軍人としての教育を受けたという「極秘事項」の開示です。
将軍は独学で戦略論を学び、孫子やクラウゼヴィッツの文献から戦略・戦術を学んだというのが、当時も今も定説となっています。
この10月4日に将軍が102歳で死去されたという報道や解説も、総て「赤いナポレオン」と呼ばれたボー・グエン・ザップ氏は独学で軍事を学んだとなっていました。
そこで考えをめぐらしてみました。
なぜ、将軍は自分が「黄埔軍官学校」で専門的に軍人としての教育を受けたことを秘密にしていたのかという理由についてです。
考えられる一つの理由は、男は自分を語らないという、「男の美学」です。日本も含めて、アジアの国では、男は自分を語らない、他人をして語らしめよ、という感じの「美学」が指導者レベルには強いのではないでしょうか。
二番目に考えられる理由としては、敵に「手の内」を示さないという戦略的な判断です。
抗仏戦争に続く対米戦争を勝ちぬくためには、自らの陣営の戦略・戦術を敵に気づかせないということも大切な要素です。
中国・広州にあった黄埔軍官学校で本格的に戦争理論を学んだ戦略家であることを秘密にすることは、相手を油断・混乱させる策でもあるわけです。
第三の理由としては、黄埔軍官学校で過ごした期間が短く、特に経歴に加えるほどのことではないとの判断です。
ベトナム訪問団の団長格であった友人は、そう理解していると最近話していました。
ズオン氏はボー・グエン・ザップ将軍の秘書的役目も果たしていたようです。その後、何度か訪日し、外交官としての最後は駐日ベトナム大使館の参事官だった人です。
日本滞在中何度かお会いしましたが、「ベトナムに再度いらっしゃい」「今度ベトナムに来た時は、ボー・グエン・ザップ将軍に面会できるよう、手配しますよ」と毎回さそわれました。
偉大な将軍に面会する機会は無くなりましたが、生涯を祖国の為に捧げたその精神は、しっかりと受け継ぐ覚悟です。