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仕事がら、各地をじっくり見て廻る機会が多くあります。
地域の要所・要所に神社や仏閣が立地しているのが目につきます。
信仰心はほぼゼロですが、なんで、各地に神社やお寺、祠、お地蔵さんまで数多くあるのか・・・考えることがあります。
神や仏にすがったり、祈ったりすれば、救われると心から信じている人がそんなに多いとは思えません・・・。
なのに、世の中に、こんなに多く祈りの対象が存在し、中には、周囲を威圧するかのように、そびえ立っているものもあります。教団や宗派の権威を象徴する役目を担っているのはよく分かりますが、わからないのは、それを支える人の心や経済的基盤です。
宗教の起源や歴史的な役割について、深く考えたことはありませんが、人の心の弱さや生活の厳しさ、限りある命への不安等々を反映して、人の心が生み出し、人びとが支えてきたことだけは確かなことでしょう。
普段、立派(?)なことを言っている偉い人が、いざ、命にかかわる厳しい局面に立たされた時、ヘナヘナとなってしまったり、真っ先に逃げ出したりすることはざらにあることです。
そんな、ギリギリの局面でも信念を曲げずに、立派な態度を貫き通した人も何人か思い浮かびます。
元韓国大統領の金大中氏、南アフリカのマンデラ氏、・・・、いずれも筋金入りのクリスチャンです。
身近な例では、日本バプテスト連盟の人々をあげることもできます。
日本全体が原子力発電の「安全神話」に服従させられていた2008年に「我が国の原子カ行政を憂慮し「無核・無兵」社会を目指すことを求める声明」(http://www.bapren.jp/uploads/photos/164.pdf)を出した勇気と先見性に驚きと感動を覚えます。
正直に言って、神社仏閣に代表される宗教の世界は、過去の遺産にすがって生きている人々の集団ぐらいの認識しかありませんでした。
もっとはっきり言えば、神社仏閣を通して見えるものは、過去そのものであり、未来は全く見えないのではないかぐらいにしか考えていませんでした。
信念といえるほどのものではありませんが、自分の生き方、生き様としては、過去を振り返ることで未来を見ようとする姿勢そのものが、片手落ち、誤りではないか・・・といった程度のものでした。
曇りのない目で現状を分析し、考えぬき、変化の予兆を見つめぬくことで、ボンヤリしたものであっても、未来が見えてくるのではないか・・・、そんな姿勢こそが、今求められているのではないか・・・と考えていましたし、その姿勢・思考が誤っているとは思えません。
しかし、日本バプテスト連盟の人達の真剣さに比べて、自分などは、まだまだ足許にもおよばないということが、やっと分かりかけてきました。
この夏休みを奥日光の避暑地で10日ほど過ごしました。
帰り道には日光東照宮があり、外国人観光客で賑わっていましたが、なぜか、お参りする気になりませんでした。
威風堂々たる神社仏閣が、現実問題に立ち向かうことを避け、過去の権威や栄光にすがる、哀れな存在に見えたからです。