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丁度60年前の今日、8月17日の未明、東北本線松川駅と金谷川駅の中間地点で上り旅客列車が脱線・転覆し、機関車乗務員3人が殉職しました。当時としては、連日、新聞やラジオで大々的に報道される大事件でした。
小学校の低学年であった自分は、ふだんは新聞などに目を通すことはなかったのですが、全国紙の「福島版」に載る事件の報道は関心を持って読んでいた記憶があります。
国鉄労働組合や東芝松川工場(現在の北芝電機)の労組関係者20人が「犯人」とされ、福島地方裁判所は死刑5人を含む被告全員に有罪判決を言い渡しました。
その後、二審の仙台高裁は17人の有罪判決、最高裁は二審差し戻しの灰色判決と続き、私が大学に入学したころは、二審差し戻しの仙台高裁での審議が最終段階になっていた時でした。
その頃、大学には「松川バカ」「松川キチガイ」と云われる学生がゴロゴロいました。(本人達がそう表現していたので、他意はありません。物事に集中・熱中するありさまを表す「誉め言葉」とご理解下さい。)
私も、福島県出身者ということで、仲間に誘われ、大学一年の夏に「現地調査」に参加しました。
上野発の夜行列車に乗り「学生松対協」のメンバーとして、早朝5時頃に福島駅に着きました。
小・中・高と相馬で過ごしたので福島市は初めてみる光景でした。駅舎は平家であまり立派とはいえない建物だったようです。信夫山が街の真ん中にデーンと構えていたのが印象的でした。
「現地調査」は宿で仮眠をとった後、朝9時頃にスタートしました。説明を聞きながら線路沿いに松川駅まで歩くわけです。途中、南福島信号所(現在の南福島駅)や金谷川駅を通ったのは憶えていますが、鉄橋やトンネルをどうやって通過したのか全く記憶にありません。
夜行列車で早朝到着し、10数キロの強行軍のせいか、事件現場の手前で動けなくなってしまいました。同行していた1年先輩の女子学生Kさんに伴われて、バスで宿に戻ったことが、きのうのことのように思い出されます。
たしか、その夏だったと思いますが、仙台高裁で差し戻し審の判決が出ました。全員無罪の完全「白」の判決です。裁判長の名前をとって門田(もんでん)判決として歴史に刻まれています。
無罪判決をテレビで観ながら思ったことが二つあります。
一つは、時の権力は謀略やデッチ上げなど、追いつめられると「何でもあり」の行為をすることもあるということです。今で云う、国策捜査ということでしょうか。
二つ目は、一審、二審と死刑判決が出た「事件」でも、国民の多くがおかしいと感じ、幅広い民衆運動・大衆運動が盛り上がれば、「被告」を死の淵から救い出すことができるということです。
完全無罪判決のキメ手となったのが「諏訪メモ」といわれたノートです。検察当局は「諏訪メモ」を証拠として持っていながら、最高裁の審議の途中まで隠し続けたようです。
当時の東芝松川工場の総務部門に勤めていた諏訪親一郎氏の労使交渉の記録ノートが無罪判決の決め手でした。
検察当局の圧力や事件当初の世論の逆風に耐えて、真実を明らかにした諏訪親一郎氏のような「人物」がこの福島にいたことは永く記憶されてもよいことではないでしょうか。
ちなみに、諏訪氏は早稲田大学商学部で学んだ、先輩です。私が早大OBの集まりである「福島早稲田会」の事務局を担当して、名簿作りをしていた時にその事情を知りました。
一度お目にかかり、敬意を表したいと願っていましたが、実現できないまま、数年前にお亡くなりになりました。
諏訪親一郎氏が大学の先輩であり、福島の市民であったことを心から誇りに思うと同時に、権力の恐ろしさを改めて想い出しました。
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