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今日(7月23日)から地域の最大イベント「相馬野馬追」が始まりました。
高校を卒業するまで、相馬市の中心商店街の一隅に住んでいた自分にとっては、多くのことを想い出させてくれるお祭りです。
騎馬武者の「お行列」が通る街に住むことが、ステータスシンボルだったような気がします。
旧城下町の二本松市民にとって、「提灯祭り」の山車の出る町内に住むことが「誇り」であるのと共通する意識なのかもしれません。
昭和17年から32年の春まで、15年程を相馬市で過ごし、武者行列の変遷を見ていました。
大戦末期から敗戦後しばらくのあいだは、宇多郷勢(相馬市周辺からの出陣武者)は百騎を下回る数だったという記憶があります。
母が、家の前を通過する騎馬武者の数をかぞえて、今年も百騎出なかったと、嘆いていたのを憶えているからです。
「工業出荷額」や「商業売上統計」を見るまでもなく、家の前を通過する騎馬武者の数が、相馬地方の経済力のバロメーターであったわけです。
今でも、野馬追に騎馬武者として参加するには少なからぬ費用がかかります。
参加料、乗馬の借り上げ料、鎧、兜の補修費、一族郎等あげての出陣式と出陣前夜祭の費用を加えると100万円を上回る持ち出しです。
それを覚悟の上で、旧中村藩の男達は野馬追に出たがるようです。
名もない、地位もない、少々の金はある男達にとって、胸を張って騎上から見物客を見おろし、街なかを行進するのは「特別な時間」なのでしょう。
野馬追い祭りといえば、南相馬市(旧原町市)で行われる「神旗争奪戦」が、全国的に有名です。
しかし、私は「神旗争奪戦」の現地・現物を見たことがありません。
その理由の一つは、母からお野馬追い(相馬では「お」を付けて言うのが普通です)が近づくと、決まって一つの話を聞かされていたからです。
私の父が幼少の頃、祖父に連れられて、兄弟で旧原町市まで「神旗争奪戦」を見物にいった時のことです。突然暴れ馬が近づいてきて、親子3人を襲ったそうです。
祖父は、子供2人を庇うため、子供の上に覆い被さり子供達を護ったという話を毎年のように聞かされました。
そんなことと、例年30度を超える暑さの時期という事情もあって、南相馬市の「雲雀ヶ原」で催される「神旗争奪戦」は一度も観たことがなかったわけです。
20年ぐらい前だったでしょうか。当時の原町市長は門馬直孝氏でした。
ご縁があって、公私ともに親しくさせていただいておりました。
「旗とり」(地元では「神旗争奪戦」をそう呼びます)を一度も観たことがないという話をしたら、「特別観覧席」の招待状が2枚届きました。
しかし、やはり観戦には行きませんでした。
日程的に無理があったことに加えて、40度を超える炎天下で2時間近くも過ごす自信がなかったからです。
野馬追い祭りの日程、開催時期については、毎年のように地元で熱い議論が交わされているようです。
「神事」としての日時に固執する主催者・神社側と地域活性化のイベントとしての側面を強調する執行委員会の考えが対立し、神社側の主張どおりの日程で決まっています。
灼熱の時期を避けて、ゴールデンウィークあるいはシルバーウィークあたりに開催できれば、数倍の集客効果と経済波及効果が見込まれるのではないでしょうか。
相馬妙見神社に祭られている神々も地域経済の活性化のために、一肌脱いでも良い時期ではないでしょうか。