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9月1日は亡き母の103回目の誕生日です。
1905年(明治38年)9月1日生まれですから、歴史年表によれば「日露両国が休戦議定書に調印した日」です。世界の大国ロシアを相手にしてアジアの小国日本が地上戦、海戦ともに勝利し、欧米列強を驚かし、列強諸国の植民地であったアジア各国の人々に大きな希望と勇気を与えた「大勝利」と位置づけられています。
母が生まれた家は、相馬市の中心商店街にある「和田屋酒店」という老舗で、今でも合資会社和田屋酒店として五代目ががんばっています。
二代目が酒蔵を2棟建てた年だったので、記念して「クラ」と名前を名付けたということのようです。
同郷(正確にいえば約80m離れた隣近所の幼なじみ)の父と結婚し、仕事の関係で湘南の茅ヶ崎、二宮に住んでいた一家は、昭和17年に相馬に疎開しました。敗戦の年に父親を失った家族6人は、そのまま相馬に住み続けました。
小学生、中学生の頃、母に連れられて友人や知人の家を訪ねたり、新派や新劇の地方公演があれば、いつも一緒に連れていかれました。用心棒兼「悪い虫」予防策だったのかもしれません。なにせ40代前半の「若後家」ですから「用心」していたのかなーと、最近わかるようになりました。世話好きな人だったようで、土地の世話をよく頼まれていました。当時は、不動産仲介業という仕事はなかったので、欲しい土地があると、その土地の持ち主の知り合いで、信頼できる人に間に入ってもらい、話を進めるというやり方が一般的だったようです。もちろん、仲介手数料はなしです。中学を卒業する頃までに、7~8件の土地の話をまとめたと記憶しています。
売る側からも、買う側からも信頼されていることが必要条件であり、顔が広く、友人、知人のネットワークがしっかりしていることが十分条件だという不動産仲介業の原点を幼少にして学ぶ機会があったのかなーと手前勝手な解釈をしています。
私が高校3年生の時に、東京に家を買う話が持ち上がりました。兄は早稲田の法学部に在学中で、寮生活を送っていました。私と2才下の弟も東京の大学への進学を当然のこととして考えていました。
3人の子供を東京の私立大学に進学させるのが、どれだけ経済的に大変なことかなどはあまりわかっていなかったというのが実態です。
結果として、相馬市の中心商店街にあった60坪程度の土地を100万円で売り、世田谷区の赤堤に20坪弱の家を建てました。土地は50坪弱の借地です。こんな仕切りも母は女手一つで実行しました。地主や大工さんへの支払いのために80万円の現金を腹に巻き、用心棒として私が一緒に上京した光景は今でもしっかりと記憶しています。おかげさまで、3人の息子達はなんとか大学を卒業できました。
母が亡くなったのは92才と47日ですから、11年前になります。その頃は不動産事業部を開設して売買仲介業を始めることは考えていませんでしたが、母に相談すれば、きっと大賛成してくれたに違いないと今にして思います。
私達は5人兄弟です。上の二人は姉で大学への進学はあきらめていたという「思い」を最近知りました。次姉は、経済的に許されるなら「お茶の水」ぐらいには進学してみたいという気持ちが強かったと最近になってもらしていました。進学に対する思いはかなえてやれなかったのですが、母は二人の娘に対してそれ以上の大きな贈り物をしています。昭和16年の夏休みの終わり、丁度今頃でしょうか。夏休みの宿題の「絵日記」の表紙にこんな歌を書き残しています。
「ものみなの とぼしきときに 歌ごころ 絵ごころ せめて 豊かなれまし」
昭和16年8月 クラ
こんな母親に育てられたことを誇りに思い、感謝しております。
私事に亘る記述、お許し下さい。
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盆も近いのでご先祖さまのありがたさについて考えてみました。
実はこの年になるまで、ご先祖さまのことなどよく考えたことがないというのが実際のところです。
子供の頃は、お祭りやお正月に母や祖父母に「お小遣い」をもらえれば嬉しかったし、お盆にご先祖さまの墓地にお参りした折に、ご先祖さまの職業や苦労話を聞いた記憶がある程度です。
反抗心の強い子供だった自分にとっては、親や祖父母は目の前の標的と見えたのでしょうか、反発・反抗ばかりしていたような気がします。そんな自分を我慢強く、じっと見つめて育ててくれた親や祖父母のありがたさに気づいたのは、亡くしてからしばらくたってからのことです。
10年程前から「人間社会の先輩」としてのご先祖さまの苦労話・試練について考える機会が時どきあります。キノコやワラビ、ゼンマイなどの山菜を食べるとご先祖さまのありがたさに思いが至るのです。
自然界のキノコなどは、食用にならない毒キノコが種類でも数でも圧倒的に多いようです。そんななかで、毒性の強いキノコと食用になるキノコを私達のご先祖さまは、文字通り「命懸け」で選別したのではないでしょうか。
その背景には、耐えがたき空腹と飢餓があったと私は考えています。人類を幾度も襲った大飢饉に際して、座して死を待つか、毒かもしれないが、命をかけて試してみるかといった選択をせまられた時に、ご先祖さまのなかの勇気ある人々が試食してみた。犠牲になったご先祖さまも少なくなかったはずです。人間の心の中にご先祖さまを敬う心が生じた根源の一つではないかと考えています。
第三は、経済的なありがたさについてです。農家はいうまでもなく、自営業の多くは、ご先祖さまの残してくれた土地や建物、信用、ノウハウ…に依存して経営が成り立っています。経営基盤、経営資源の大部分を親や祖父母を含めたご先祖さまから引き継いだ立場の人にとって、朝、晩、手を合わせて感謝の気持ちをあらわすのは、理の当然ということでしょう。こんなことも最近になってようやく分かりかけてきました。
それにしても、ご先祖さまから引き継いだ資産、財産の大部分は不動産だったということです。ごく最近まで、主要な蓄財手段は不動産しかなかったということの反映なのでしょうか。お金は使ってしまえばなくなるし、営業ノウハウも時代が変われば価値を失います。唯一、価値を失わず人を裏切らないのは不動産(土地)だと人々が固く信ずるにはそれなりの理由があったわけです。
さて、これからはどうでしょうか。不動産も格差の時代、二極化の時代に確実に入っています。皆さまと一緒に、ババをつかまないように、確実にエースを手に入れられるように考え、行動していく覚悟です。
丁度11年前の今ごろ、時々背中の痛みをうったえていた92才の母親を連れて、会社の近くの済生会病院を訪ねました。私が30年も前から人間ドックでお世話になっていた栗原先生に診てもらったところ、末期の膵臓ガンという診断です。高齢と患部の位置からして手術は無理であり、本人の苦痛を最小限に抑えながら最善の手をつくすという基本方針が即座に決まりました。
今、11年前の手帳を取り出して日付を追いながらこのコラムを書いています。私は40年程前から、毎日の予定と出来事を手帳に記入する習慣が身についています。「手帳を秘書として使う(http://www10.plala.or.jp/tika-infre/techouihsyo.html)」という自作の寄稿文を文字通り実践しているからです。
1年で3~4冊の手帳を使い切るやりかたですが、毎日の行動記録がしっかりと残るので大変重宝しています。
’97年の4月25日から9月8日まで使った手帳のページを繰っていたところ、8月31日(日曜日)の欄にこんな短歌が記されていました。
「黙しつつ 大地踏みしめ 大空に 相あふ心 今しおぼえぬ」
昭和2年 クラ子
とあります。小康状態であった母親が、日曜日の夕食時に昔語りをしていた時のメモです。日本女子大国文科2年生の母が、井の頭公園で、その後私の父親となる徳助(徳チャンと呼んでいた幼なじみです)とデートをした時の心情を詠んだものです。学生時代、武島羽衣先生に師事していた母は歌ごころも豊かだったようです。
また、闘病中の7月にはこんな歌も残しています。
「のきしたの あまだれの音に ふと目ざめ さわやかなりし 夏の一日」
平成9年7月 クラ子
ポプラの巨木の下に建つ我が家は、夏涼しく快適な家でしたが、落ち葉で雨どいが詰まっていて、すぐに雨だれが落ちてくるという欠点もありました。日中に夕立ちのあった日の夕食時だったと記憶しています。こんな歌をつくってみたが、下の句の最後は「夏の一日」と「夏の夕暮れ」でどちらがいいと思うか、と話かけてきました。私は、一日を通してさわやかと感じていたのであれば「夏の一日」の方がふさわしいのではないか、などと話した と記憶しています。
痛み止めのモルヒネの使用量もだんだんと多くなっていくなかで、自分は今、幸せな時間を過ごしているというメッセージを周りの人に知らせたかったのだということが、今にして理解できます。
そんな母がよく口にしていた言葉が「すまじきものは、宮仕へ」です。清少納言が1,000年も前に書いた「枕草子」の書き出し文言だということはなんとなく分かっていましたが、母がその言葉に込めて伝えようとしたメッセージの意味が分かったのは、社会人として仕事に就いてからでした。
不本意なことでも「宮仕えの身」であれば実行しなければならない場合もある。自分を殺して仕事をしているから給料がもらえる。そんな世の中の仕組みと宮仕えの悲哀から早く脱出し、自分で独立して仕事なり事業を始めなさいという願望を込めたメッセージだったのでしょう。
30才を過ぎた頃から独立志向、事業にチャレンジしてみたいという意欲が一層強くなりました。運良く不動産鑑定士の二次試験に合格し、(財)日本不動産研究所で5年間修業した後、独立開業したのは40才を目前にした丁度今頃でした。30年前の日本経済は、高度成長の途上であり公共事業も年々増加していたので、不動産鑑定業界は恵まれた環境にあったわけです。
独立開業してつくづく感じたことは、「宮仕え」から「世の中に仕える」「世間一般の人に役立つ仕事をする」ことの重要性です。特に3年前に開設した不動産事業部の仕事は、世間一般の人々が自ら汗を流して稼いだお金で一生に一度の高額な買い物である住宅取得のお手伝いをする仕事です。
「宮仕え」ではなく「世の中に仕える」という意味で、やりがいのある仕事だと感じています。
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