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昨日、10月16日は父の命日です。
父は66年前、昭和20年(1945年)10月16日、インドネシア・ジャワ島のスマラン市で没しました。
日本の敗戦(ポツダム宣言受諾)がその年の8月15日ですから、戦後に「戦死」したことになります。
太平洋戦争の戦勝国であり、旧宗主国であったオランダ軍の上陸・再占領に備えて、インドネシアの独立を目ざす勢力が、日本陸軍の武器・弾薬を手に入れるべく決起した「スマラン事件」で殉難したわけです。
軍属としてスマラン市の鉄道運行に係わっていた父は、独立を目ざす決起部隊に連行される際に、「話せば分かる」と自ら進んで「人質」となったと人伝に聞いています。
五・一五事件(昭和7年)の犬養毅首相が海軍青年将校団に襲撃された時の言葉が「話せば分かる」だったことは有名ですが、その当時は、どんなに敵対する相手であっても「話し合えば分かりあえる」という社会通念・共通認識があったのでしょうか。
殺気立つ将校らに囲まれながら犬養総理はその名の通り、「毅然」と対応し、「話を聞こう」と応接室に案内したと伝えられています。
総理官邸に裏口から侵入した一団が、「問答無用、撃て」と銃撃したと伝えられています。
政治家たるもの、一国の指導者たるものは、常に命を懸ける覚悟が求められるわけで、その覚悟さえあれば、どんな場面でも平静に対応できるということでしょうか。
父は中部ジャワ陸輸局の同僚ら50人と共に連行され、対オランダ独立戦争に備えるべき「武器・弾薬争奪戦」の犠牲となったようです。
連合国に無条件降伏した日本軍の武装解除を、オランダを含む連合国側が行うのか、独立戦争に備えて、インドネシア側がその前に日本軍の武器・弾薬を手に入れるのかをめぐって、鋭い対立と大きな行き違いがあったようです。
死を前にして、「人質」として収容された部屋の壁に「大義に死す 大君万才」「インドネシアの独立を祈る 万才」と血書が残されていたということです。
立場は違っても、どんなに追いつめられた状況でも、民族の独立、インドネシアの独立という大義の立場を貫き通したこの「人質一同」は立派であったのではないでしょうか。
私の父も、その一員であったことを心から誇りに思います。
事件から半世紀すぎた1990年代の後半になって日本・インドネシア双方の関係者の努力でスマラン市郊外に「鎮魂の碑」が建立されました。
いつの日か、スマラン市を必ず訪れ、日本に残された5人の子供と妻は、戦後の混乱期をしっかりと生き抜いたことを報告するつもりです。
父は66年前、昭和20年(1945年)10月16日、インドネシア・ジャワ島のスマラン市で没しました。
日本の敗戦(ポツダム宣言受諾)がその年の8月15日ですから、戦後に「戦死」したことになります。
太平洋戦争の戦勝国であり、旧宗主国であったオランダ軍の上陸・再占領に備えて、インドネシアの独立を目ざす勢力が、日本陸軍の武器・弾薬を手に入れるべく決起した「スマラン事件」で殉難したわけです。
軍属としてスマラン市の鉄道運行に係わっていた父は、独立を目ざす決起部隊に連行される際に、「話せば分かる」と自ら進んで「人質」となったと人伝に聞いています。
五・一五事件(昭和7年)の犬養毅首相が海軍青年将校団に襲撃された時の言葉が「話せば分かる」だったことは有名ですが、その当時は、どんなに敵対する相手であっても「話し合えば分かりあえる」という社会通念・共通認識があったのでしょうか。
殺気立つ将校らに囲まれながら犬養総理はその名の通り、「毅然」と対応し、「話を聞こう」と応接室に案内したと伝えられています。
総理官邸に裏口から侵入した一団が、「問答無用、撃て」と銃撃したと伝えられています。
政治家たるもの、一国の指導者たるものは、常に命を懸ける覚悟が求められるわけで、その覚悟さえあれば、どんな場面でも平静に対応できるということでしょうか。
父は中部ジャワ陸輸局の同僚ら50人と共に連行され、対オランダ独立戦争に備えるべき「武器・弾薬争奪戦」の犠牲となったようです。
連合国に無条件降伏した日本軍の武装解除を、オランダを含む連合国側が行うのか、独立戦争に備えて、インドネシア側がその前に日本軍の武器・弾薬を手に入れるのかをめぐって、鋭い対立と大きな行き違いがあったようです。
死を前にして、「人質」として収容された部屋の壁に「大義に死す 大君万才」「インドネシアの独立を祈る 万才」と血書が残されていたということです。
立場は違っても、どんなに追いつめられた状況でも、民族の独立、インドネシアの独立という大義の立場を貫き通したこの「人質一同」は立派であったのではないでしょうか。
私の父も、その一員であったことを心から誇りに思います。
事件から半世紀すぎた1990年代の後半になって日本・インドネシア双方の関係者の努力でスマラン市郊外に「鎮魂の碑」が建立されました。
いつの日か、スマラン市を必ず訪れ、日本に残された5人の子供と妻は、戦後の混乱期をしっかりと生き抜いたことを報告するつもりです。
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