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KYと書いて「空気が読めない人」と読むことを知ったのは3年ぐらい前でしょうか。
不動産事業部の仕事の進め方、やり方について二番目の息子と議論していた時だったと記憶しています。
「オヤジ」みたいな人をKYと云うんだ。つまり、周りの空気が全く分かっていない人、自分中心に世の中が回っていると思いこんでいる人は………、といった厳しい意見でした。
自分中心に世の中が回っていると思うほど単純ではないと思っていますが、「空気が読めない人」という批評はかなり当たっているな………と感じました。正確に云えば「空気を無視する」「あえて時流に逆らう」という生き方を心がけてきたつもりだからです。
ユニークな「日本人論」で知られる山本七平氏に「『空気』の研究」という著作があります。
時流に流され易く、その場の空気や雰囲気に左右されがちな日本人の特質・弱点を鋭く分析した名著です。
今回の新型インフルエンザ騒動を見ていて、改めて「空気の研究」を読みなおしてみました。
大阪の私立高校の校長や教頭が、自校の生徒から感染者を出したことについて、テレビカメラの前で涙を流しながら「謝罪会見」をする「異常さ」について改めて考えさせられました。
世界的に新型インフルエンザの流行が拡がりを見せるとき、自校生から感染者を出したからといって「謝罪」などをする必要はまったくありません。
学校運営の責任者がやるべきことは、「謝罪会見」ではなく、臨時休校になって、戸惑っている生徒達に向かって発言することであり、生徒の方を向いて行動することです。
世の中の「空気」に押されて「涙ながらの謝罪会見」をすることなどは、教育者としての見識や姿勢が疑われかねません。まあ、このケースは関係者が「空気を読みすぎた」結果といったところでしょうか。
世の中の一部に、感染した人や地域に何か責任があるかのような風潮があることは確かです。しかし、そんな時こそ教育者はその本領を発揮し、物事の是非を問い、行動でお手本を示すよい機会だととらえるべきなのではないでしょうか。
世の中の空気や「風向き」に流されることなく、自分の頭で物事を考え、本音で語ってきた者としては、「KY」空気が読めないと云われることは、むしろ誉め言葉であり、誇りとするところです。
問題なのは、今の世の中の空気を読むことではなく、3年後、5年後、10年後の時代がどうなるかを読みぬく能力、考えぬき、予測する能力なのではないでしょうか。