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株式マーケットの関係者で自嘲の意味を込めて言われているのが「後講釈」という言葉です。
「結果がわかってから、もっともらしく説明を加えること」は本当のプロの間では侮蔑の対象でしかないようです。
〇〇評論家と称する多くの人の解説・講釈も、多くは後講釈に毛の生えたレベルです。
そう考えると、歴史学(歴史解釈学)などは、後講釈の集大成ということになりそうです。
さらにつけ加えれば、社会科学、特に経済学は後講釈・後知恵の精緻な集積といってしまっては、身も蓋もないことになるわけですが、真実でもあります。
人生設計・人生航路でもビジネスでも、現状の把握・分析と将来予測は必要不可欠なことがらですが、いずれも多くの困難と誤ちを伴うことです。
なお、社会科学・人文科学の名誉のために一言付け加えれば、たとえ、後講釈・後知恵だとしても、未来予測をするための手がかり・材料は、過去の出来事の解釈と現在の事がらの分析から得る以外に方法・手法がないことも、また確かなことです。
2年ほど前に話題になった、「21世紀の資本」(トマ・ピケティ著、みすず書房)も、世界20ヶ国の税務統計を過去200年以上にわたって集計・分析した結果をまとめたものです。
資本主義の分析という点では、150年前(1867年)にカール・マルクスが著した「資本論」(Das Kapital)が嚆矢ですが、資本論が画期的だとされるのは、過去と現状の分析にとどまらず、未来予測(近未来ではなく、遠未来についての予測)を大胆に試みた点にあるわけです。
「階級闘争」という切り口で人類史を分析し、階級・格差のない「共産主義」という遠い未来の「ユートピア」を描いてみせたという点からすると、未来学の元祖といえるのかもしれません。
30年以上前に、未来学が世界的に大ブームの時代がありましたが、今はあまり流行らないようです。
過去と現況の分析・検証を基にして、未来予測をするのが「未来学」の使命のはずですが、変動要因があまりにも多すぎることに加えて、激変・激動の速度が早過ぎる現代社会においては、「未来学」が置き去りにされているといったところでしょうか。
数日前に「時間かせぎの資本主義」(W・シュトレーケ著・みすず書房)という大著を読み終えました。2016年2月19日刊行ですから、我が国で翻訳・発売されて丁度1年です。
手に入れて読みだしたのが昨年の12月ですから、2か月余りかけて読破したことになります。
書名からも分かるとおり、今現在、世界で進行している「経済危機」を分析・解明し、その行く末を論じた労作であり、21世紀の勝ち組をめざす「経済人」にとっては必読の書ともいえるものです。
今年のメインテーマとして、繰り返し精読し、たとえ、勝ち組には入れなくとも、少なくとも、敗け組にはならないよう努力するつもりです。
追伸
「後講釈」をキーワードにして、近未来予測と遠未来予測の違いについて考えてみました。
近未来予測は文字通り、一刻先・一寸先に起きることの予想・予測です。しかも、それは命や金に大きく係ることであり、ナマグサイ世界のことです。
一方、遠未来予測は、将来こんなことが起きるのではないか・・・、こんな風な世の中になるのではないか・・・、といった、いわば、ロマンと願望の世界です。
鉄火場・相場・マーケット、いずれも超近未来の予測に振り回されるドロドロした世界ですが、予測が外れた場合、後講釈の一つぐらい、言いたくなる心情も分かる気がします。