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論より証拠という「ことわざ」は、わが国で広く知られており、諸外国にも同じ意味の言葉があります。
言葉であれこれと説明するより、裏づけのある証拠で見せた方が説得力があるということは、世界共通の「真理」なのでしょう。
この2ヶ月ほど、「原発賠償を考えぬく」というコラム(http://www3.plala.or.jp/kantei/baisyo.html)を鑑定部のホームページに書いています。
3.11の原発事故後26ヶ月になるのに、被災地の不動産賠償は遅々として進まず、ようやく経済産業省・東京電力から「賠償基準」が示された段階です。
不動産鑑定士として、原発被災地内に残る土地や建物の損害賠償はどうあるべきかを考えてきました。避難している人々が安全な場所・地域に移り住むことが可能になるような不動産賠償額は、どうあるべきかを考えぬくコラムとして、8回連載したところです。
各地の原発賠償弁護団や少なからぬマスコミ関係者から問い合わせや取材を受けました。
各々の立場で、被災者の生活再建のために何とか役に立ちたいという思いは全く一緒です。
「原発賠償問題」を考えぬくために、少なからぬ時間を割いて、資料を集め、分析・検討を進めています。
被災者側と東京電力側では、置かれている立場は180°違っており、文字通り真逆です。
立場や利害が正反対な双方が納得し、受け入れることのできる土地や建物の賠償額を決めるために必要なことは何なのかを、コラムのスタートにあたり考えました。
結論として、「事実を並べて道理を説く」立場に徹することではないかと思いあたりました。
事実(証拠・論拠)を調べつくして、道理(公正な論理・議論・結論)の立場に徹することこそが、置かれた立場の違いを乗り越えて、受け入れ可能な、妥当な賠償額に到達できる唯一の方策ではないかという考え方です。
感性的、あるいは人情・感情的には、被災者の立場に徹するべきだとの議論はよく分かりますし、弁護団が被災者の側から行動するのは十分に理解できます。
しかし、不動産の鑑定評価に求められている役割は、理性的な判断です。それは、交換価値や市場価値の判定であり、それ以上でも以下でもありません。
東京電力や経済産業省の考え方は、財物価値の減少分の賠償・補償というのが基本です。
生活の場も仕事も地域も奪われた被災者にとってはとうてい受け入れることのできない論理です。
そこで、あれこれ考え、関係者とも議論をくり返しました。
事実上、いつ戻れるか分からない地域となった双葉郡とその周辺地域内にある不動産(宅地・建物・農地・山林・立木等)については、地域全体がダムの底に沈む場合等に適用される、「公共用地取得に伴う補償基準」を適用し、当事者の生活再建を可能にする考え方が、最も妥当で公正なものではないかということが、今の段階での結論です。
言葉であれこれと説明するより、裏づけのある証拠で見せた方が説得力があるということは、世界共通の「真理」なのでしょう。
この2ヶ月ほど、「原発賠償を考えぬく」というコラム(http://www3.plala.or.jp/kantei/baisyo.html)を鑑定部のホームページに書いています。
3.11の原発事故後26ヶ月になるのに、被災地の不動産賠償は遅々として進まず、ようやく経済産業省・東京電力から「賠償基準」が示された段階です。
不動産鑑定士として、原発被災地内に残る土地や建物の損害賠償はどうあるべきかを考えてきました。避難している人々が安全な場所・地域に移り住むことが可能になるような不動産賠償額は、どうあるべきかを考えぬくコラムとして、8回連載したところです。
各地の原発賠償弁護団や少なからぬマスコミ関係者から問い合わせや取材を受けました。
各々の立場で、被災者の生活再建のために何とか役に立ちたいという思いは全く一緒です。
「原発賠償問題」を考えぬくために、少なからぬ時間を割いて、資料を集め、分析・検討を進めています。
被災者側と東京電力側では、置かれている立場は180°違っており、文字通り真逆です。
立場や利害が正反対な双方が納得し、受け入れることのできる土地や建物の賠償額を決めるために必要なことは何なのかを、コラムのスタートにあたり考えました。
結論として、「事実を並べて道理を説く」立場に徹することではないかと思いあたりました。
事実(証拠・論拠)を調べつくして、道理(公正な論理・議論・結論)の立場に徹することこそが、置かれた立場の違いを乗り越えて、受け入れ可能な、妥当な賠償額に到達できる唯一の方策ではないかという考え方です。
感性的、あるいは人情・感情的には、被災者の立場に徹するべきだとの議論はよく分かりますし、弁護団が被災者の側から行動するのは十分に理解できます。
しかし、不動産の鑑定評価に求められている役割は、理性的な判断です。それは、交換価値や市場価値の判定であり、それ以上でも以下でもありません。
東京電力や経済産業省の考え方は、財物価値の減少分の賠償・補償というのが基本です。
生活の場も仕事も地域も奪われた被災者にとってはとうてい受け入れることのできない論理です。
そこで、あれこれ考え、関係者とも議論をくり返しました。
事実上、いつ戻れるか分からない地域となった双葉郡とその周辺地域内にある不動産(宅地・建物・農地・山林・立木等)については、地域全体がダムの底に沈む場合等に適用される、「公共用地取得に伴う補償基準」を適用し、当事者の生活再建を可能にする考え方が、最も妥当で公正なものではないかということが、今の段階での結論です。
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親の代を含めると、3軒の家作りに深く関わってきました。
いずれも、敷地と資金の制約があるなかで、どんな間取りが良いか、大工さんは誰に頼むかといったことが主な検討項目であり、一定のワクの中でのプラン作りであり選択でした。
それでも、自分や家族が住む家のプラン作りは楽しいものであり、高校3年の時に親と義兄が家を建てた時は、受験勉強をほったらかして、建築現場を毎日見にいったことがなつかしく憶い出されます。
現在住んでいる笹谷の家は、県住宅供給公社の建売住宅であり、敷地と間取りを選択する程度の自由度しかありませんでした。その後、2度ほど増改築しましたが、敷地の制約もあり、2階建てにして部屋数を増やすのが精一杯でした。
その頃からでしょうか。将来、敷地の制約と資金の制約なしで、理想とする家を建ててみたいとの「夢」をもつようになりました。
不動産鑑定士という仕事をするようになってからは、ひと様の建てた家や土地・建物を第三者の目で見る機会が多くなりました。
それぞれの家・住宅には、建て主の住宅観・人生観あるいは財力が何らかの形で反映されていることも少し分かりました。
しかし、いずれも、敷地と資金という現実的な制約のなかでの「夢の実現」であり、何かもの足りないものを感じることが多かったことも事実です。
いつのまにか、敷地と資金の制約のない理想的な住居を建てて住んでみたいという、夢のまた夢のような思いは忘れかけていましたが、ふとしたことから、夢の一部あるいは半分ぐらいは実現できるのではと考えるようになりました。
それは、自分の理想に近いリゾート施設を探し出し、そこにある程度の期間滞在することで実現できることに気づいたことです。
仕事がら、国内各地のリゾート施設は多く見てきた方でしょう。営利目的まる出しのホテルや施設が多い中で、地元の名士・名家が最高の環境・景観のロケーションを見い出し、金に糸目を付けないで建物や施設を作った「作品」も少なくありません。
こんな「作品」のなかには、自分の人生観や自然観に一致するだけでなく、新しい発見をさせてくれるものもあります。
理想とする住まいを、土地とお金の制約なしで建ててみたいという夢は実現できそうもありませんが、理想に近いホテルや旅館、リゾート施設に一定期間滞在することは十分に可能です。
時間とお金の制約があるなかで、せめて年に2週間程度は、夢を実現させてくれるホテルや旅館でのんびりと過ごす、これは実現できそうです。
いずれも、敷地と資金の制約があるなかで、どんな間取りが良いか、大工さんは誰に頼むかといったことが主な検討項目であり、一定のワクの中でのプラン作りであり選択でした。
それでも、自分や家族が住む家のプラン作りは楽しいものであり、高校3年の時に親と義兄が家を建てた時は、受験勉強をほったらかして、建築現場を毎日見にいったことがなつかしく憶い出されます。
現在住んでいる笹谷の家は、県住宅供給公社の建売住宅であり、敷地と間取りを選択する程度の自由度しかありませんでした。その後、2度ほど増改築しましたが、敷地の制約もあり、2階建てにして部屋数を増やすのが精一杯でした。
その頃からでしょうか。将来、敷地の制約と資金の制約なしで、理想とする家を建ててみたいとの「夢」をもつようになりました。
不動産鑑定士という仕事をするようになってからは、ひと様の建てた家や土地・建物を第三者の目で見る機会が多くなりました。
それぞれの家・住宅には、建て主の住宅観・人生観あるいは財力が何らかの形で反映されていることも少し分かりました。
しかし、いずれも、敷地と資金という現実的な制約のなかでの「夢の実現」であり、何かもの足りないものを感じることが多かったことも事実です。
いつのまにか、敷地と資金の制約のない理想的な住居を建てて住んでみたいという、夢のまた夢のような思いは忘れかけていましたが、ふとしたことから、夢の一部あるいは半分ぐらいは実現できるのではと考えるようになりました。
それは、自分の理想に近いリゾート施設を探し出し、そこにある程度の期間滞在することで実現できることに気づいたことです。
仕事がら、国内各地のリゾート施設は多く見てきた方でしょう。営利目的まる出しのホテルや施設が多い中で、地元の名士・名家が最高の環境・景観のロケーションを見い出し、金に糸目を付けないで建物や施設を作った「作品」も少なくありません。
こんな「作品」のなかには、自分の人生観や自然観に一致するだけでなく、新しい発見をさせてくれるものもあります。
理想とする住まいを、土地とお金の制約なしで建ててみたいという夢は実現できそうもありませんが、理想に近いホテルや旅館、リゾート施設に一定期間滞在することは十分に可能です。
時間とお金の制約があるなかで、せめて年に2週間程度は、夢を実現させてくれるホテルや旅館でのんびりと過ごす、これは実現できそうです。
今の時代を一言でいえば、情報化時代・情報発信の時代ということでしょうか。
「情報」には、収集・受信する側面と創造・発信する側面の二面があることはお分かりのことでしょう。
収集・受信という側面では、新聞に目を通す・テレビを視る・ラジオを聴く・ネットで調べるなど、すべて受け身な行動・受動的な行為であるという点で共通しています。
受動的な行為・行動の正反対のことが、能動的、つまり、自らが積極的に働きかける行為・行動であり、情報化時代に即していえば、情報発信ということでしょうか。
普通の人にとって、新聞に出る(記事や文章を書く)、テレビやラジオに出演することなどはめったにないことです。つまり、マスメディアとは一方的に発信する情報を、一般人は一方通行で、もっぱら受け入れるシステムだということです。
双方向テレビなどといっても、基本は一方通行のマス(大量)メディア(情報伝達)であることに変わりはありません。
インターネット・検索エンジンの世界はどうでしょうか。ネットサーフィンなどといわれる、専ら情報収集にネットを利用している人も少なくないようです。
ネットが社会を変えるという点では、情報収集の速さ・安価さ・広さ・利便性等々のメリットが大きいことはたしかです。しかし、これはあくまでも受動的な側面にすぎません。
ネットメディアが従来のマスメディアと根本的に違うことは、ネットを活用すれば、自らが情報発信の主体・主人公になれるということです。
東欧やアラブの春をもたらしたものはネットメディアの普及だったようです。ならば、わが国においては、ネットメディアの普及は何をもたらすのでしょうか。
ネット選挙が「解禁」される方向なので、わが国の政治のあり方も大きく変わるかもしれません。
日常生活や仕事レベルでいえば、ネットの普及によって世の中がどう変化するのか、ビジネスモデルがどんな影響を受け、どんな新しいビジネスが出現するのかを考えぬき、予測することが求められているわけです。
ネットビジネス、ネットマーケティング、ネットスーパー等々、新しい試みが始まり、実績も出ています。
ネット時代を生きる個人として考えた場合、インターネットが個々人に与える大きな可能性、ネットが個々人に情報発信の場を提供しチャンスを与えたという側面が最大の変化であり、贈り物ではないでしょうか。
ところが、「思いを言葉に」して、情報発信をするということは、実はそう簡単なことではありません。
わが国の伝統的な教育・学校教育・受験教育は知識偏重・暗記重視です。特に受験秀才・学校秀才だったエリート層は、100点満点の答案は(昔は)書けても、自分の思いや考えを、たとえ50点~60点でも良いから文章にして発信するという「発想」はどうしても出てこないようです。
学校秀才でなかった普通の人々にとってこれはビッグチャンスではないでしょうか。
世の中に出てから体験したこと、取得した専門知識、ビジネスや業界をこう変えたいという「志」、実は、これらは世の中が必要としている英知・有用な情報そのものなのです。
日本人の美意識、特に「男の美学」からすると、思いは胸に秘めておくもの、とされていました。
しかし、ネットの時代は「胸に秘めた思い」を言葉・文章にして発信することが求められているとつくづく思います。
自分が苦しい体験を通して獲得したものを言葉として発信する、それがコラムでありブログではないでしょうか。
経験や姿勢が本物であれば、必ず相手の心に届くはずです。1回では無理でも、数を重ねることで読む人の心を射抜く言葉・文章が書けるようになるはずです。
自分の文章修業も兼ねて、本音のコラムをこれからも続けます。お付き合い下さい。
「情報」には、収集・受信する側面と創造・発信する側面の二面があることはお分かりのことでしょう。
収集・受信という側面では、新聞に目を通す・テレビを視る・ラジオを聴く・ネットで調べるなど、すべて受け身な行動・受動的な行為であるという点で共通しています。
受動的な行為・行動の正反対のことが、能動的、つまり、自らが積極的に働きかける行為・行動であり、情報化時代に即していえば、情報発信ということでしょうか。
普通の人にとって、新聞に出る(記事や文章を書く)、テレビやラジオに出演することなどはめったにないことです。つまり、マスメディアとは一方的に発信する情報を、一般人は一方通行で、もっぱら受け入れるシステムだということです。
双方向テレビなどといっても、基本は一方通行のマス(大量)メディア(情報伝達)であることに変わりはありません。
インターネット・検索エンジンの世界はどうでしょうか。ネットサーフィンなどといわれる、専ら情報収集にネットを利用している人も少なくないようです。
ネットが社会を変えるという点では、情報収集の速さ・安価さ・広さ・利便性等々のメリットが大きいことはたしかです。しかし、これはあくまでも受動的な側面にすぎません。
ネットメディアが従来のマスメディアと根本的に違うことは、ネットを活用すれば、自らが情報発信の主体・主人公になれるということです。
東欧やアラブの春をもたらしたものはネットメディアの普及だったようです。ならば、わが国においては、ネットメディアの普及は何をもたらすのでしょうか。
ネット選挙が「解禁」される方向なので、わが国の政治のあり方も大きく変わるかもしれません。
日常生活や仕事レベルでいえば、ネットの普及によって世の中がどう変化するのか、ビジネスモデルがどんな影響を受け、どんな新しいビジネスが出現するのかを考えぬき、予測することが求められているわけです。
ネットビジネス、ネットマーケティング、ネットスーパー等々、新しい試みが始まり、実績も出ています。
ネット時代を生きる個人として考えた場合、インターネットが個々人に与える大きな可能性、ネットが個々人に情報発信の場を提供しチャンスを与えたという側面が最大の変化であり、贈り物ではないでしょうか。
ところが、「思いを言葉に」して、情報発信をするということは、実はそう簡単なことではありません。
わが国の伝統的な教育・学校教育・受験教育は知識偏重・暗記重視です。特に受験秀才・学校秀才だったエリート層は、100点満点の答案は(昔は)書けても、自分の思いや考えを、たとえ50点~60点でも良いから文章にして発信するという「発想」はどうしても出てこないようです。
学校秀才でなかった普通の人々にとってこれはビッグチャンスではないでしょうか。
世の中に出てから体験したこと、取得した専門知識、ビジネスや業界をこう変えたいという「志」、実は、これらは世の中が必要としている英知・有用な情報そのものなのです。
日本人の美意識、特に「男の美学」からすると、思いは胸に秘めておくもの、とされていました。
しかし、ネットの時代は「胸に秘めた思い」を言葉・文章にして発信することが求められているとつくづく思います。
自分が苦しい体験を通して獲得したものを言葉として発信する、それがコラムでありブログではないでしょうか。
経験や姿勢が本物であれば、必ず相手の心に届くはずです。1回では無理でも、数を重ねることで読む人の心を射抜く言葉・文章が書けるようになるはずです。
自分の文章修業も兼ねて、本音のコラムをこれからも続けます。お付き合い下さい。
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