忍者ブログ
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

由紀さおりさんの歌が欧米で人気が高いのだそうです。NHKテレビがゴールデンタイムの番組、クローズ・アップ現代で特集をしていたのを数日前に見ました。
 
由紀さおりさんが日本語で発声し、唄う歌を外国人が聴いて感動するメカニズムについて、音声学的、心理学的に突っこんだ解説をしていたのを聞いて、多くのことが分かり、納得するものがありました。
 
そういえば、坂本九さんの「上を向いて歩こう」も、スキヤキソングとして、米国では流行していたと記憶しています。もちろん、日本語で唄っていたわけです。
 
我々の年代には、熱狂的なビートルズ・ファンが少なくありませんが、つい最近まで、何で英語の歌に、あんなに夢中になるのかどうしても理解できませんでした。
 
最近の例でいえば、マイケル・ジャクソンの歌と振り付けについても、何か「伝わるもの」はありましたが、「感動する」というものではありませんでした。
 
外国人が原語で唄う歌は、その歌詞が、その意味が理解できなければ、分かるはずがないという「思い込み」が強く、素直に音楽、声楽として聴くことができなかったということが、大きな壁になっていたわけです。
 
NHKの番組は、そんな自分自身が作りあげてきた壁を見事に取り除いてくれました。
 
外国語の歌やオペラ、つまり声楽を、楽器の演奏と同じように、音楽として聴けば、言葉の壁はなくなるという、至極あたり前のことが、この年齢になってようやく理解できたわけです。
 
遅いといえば、あまりにも遅い。無知といえば、あまりにも無知なことですが、自分にとっては、「大発見」でした。
 
そこで反省しました。何でこんな初歩的な、誰にでも分かることが、今まで分からなかったのかと。
 
育った家庭環境は、音楽的には恵まれていた方だったでしょう。中学生の時は、ほんの短期間でしたが、高校の音楽教師をしていた義兄からピアノを習ったこともあります。
 
LP版でクラシックもずいぶん聴かされました。大学時代は、姉のお供で日比谷公会堂でイタリア・オペラを聴いたこともあります。
 
しかし、音楽の世界とは「縁なき衆生」、門外漢として過ごしてきたわけです。
 
音楽に対して、「構えて」いたことも一つの原因、理由でしょう。しかし、一番大きな理由は、音楽は何を伝えようとしているのか、何を言わんとしているのかを、言語表現、文章表現として、「大脳生理学的」にいえば、言語系として、理解しようとしていたことにあると、NHKの番組を見ながら思いあたりました。
 
童謡、民謡、演歌、日本の歌には言語系の脳も使って楽しむ、十分に受けとめることができるジャンルが多いことに気づきます。
 
言語系の脳と「音楽系(?)」の脳の両方を使ってはじめて楽しむことができる、場合によっては「感動」するのが日本の歌曲の特徴かなとも思いました。
 
しかし、よく考えてみれば、世界のそれぞれの民族や地域で歌われている歌曲も同じことが云えるわけです。
 
世界の各地で歌われる歌曲のなかで、歌い手の力量や歌曲そのものの音楽性・感動性・共鳴性の高いものが、世界で通用する、普及するのではないでしょうか。
 
つまり、言語系の力を借りなくとも、歌い手や曲そのものの音楽性だけで、世界が受け入れてくれるだけの音楽としての表現力・発信力が、世界で通用するためには必要なのではないかということです。
 
ボニージャックスやダークダックスが世界で通用したのも、彼らの合唱音楽が言語の壁を超えて、音楽として受け入れられたからに違いありません。
 
そういえば、母から音楽に国境はない、芸術にも国境はないと、よく聞かされていました。その意味を深く考えたりしたことはありませんでしたが、今にして、ようやく、言葉の壁を超えて、脳の言語系の力を借りなくとも、音楽や芸術は理解することができるということだったと分かりました。
 
そして、蛇足をつけ加えれば、音楽を楽しむ場合には、言語系の脳は休ませて、純粋に演奏そのものに耳を傾け、心を開けばよいのだということが、今にして、理解できました。
 
遅すぎた「春」のヤブニラミな文章表現、お許し下さい。
PR
昨年10月、米国ダートマス大学の政治学の教授をしているリンド先生からメールが届きました。
 
 50年前、私がまだ学生の頃、訪日したロバート・ケネディ氏(米司法長官)との、早稲田大学の大隈講堂での「公開討論会」でのやりとりについて、インタビューをしたいとの申し出でした。
 
 2年前に、このコラムに「R・ケネディ氏との公開討論会」という記事を載せたのを見ての問い合わせです。
 
日米関係の中でのR・ケネディ氏の訪日の位置づけと、その中での早稲田大学での「公開討論会」について詳しい事情を研究しているとのことでした。
 
50年も前のことを詳しく調べ、研究テーマにしている人がいることが驚きでした。
 
通訳兼仲介役のランシガン・加藤玲奈さんを介してのメールでのやりとりが12回ほど続きました。
 
自分にとっても、学生時代の「悪業」を省みるよい機会と考えて、何事も隠さずに、すべてを語ったつもりです。
 
日本的な基準では、「男は自分を語らない」、「他人の評価にまかせよ」というのが「男の美学」であると考えられています。
 
日本男子の端くれの一人として、今までは、あまり弁明などはしないつもりできました。
 
しかし、今回、リンド先生から鋭い質問を数多く寄せられ、それに答える形で、しっかりと応答することになりました。
 
結果として、R・ケネディ氏との「対決」の真実に一歩近づけたのではないかと思っています。
 
自分の思いや主張を、しっかりと相手の心に届く言葉で語る。つまり、「情報発信」こそが、世界の標準であり、時代が求めているものだということを学びました。
 
リンド先生とランシガンさんの了解を得たので、私の個人的なホームページ上でメール・インタビューの全文を掲載しました。
http://www10.plala.or.jp/tika-infre/lind.htm
 
米国の若き女性政治学者の知性の広さと奥行きの深さ、その助手をされているランシガンさんの教養の高さと人柄を知る意味でも、ぜひ、ご覧下さい。
先週、出身地である相馬市を震災後初めて訪れました。
 
空家になっている姉の家や3ヶ所の墓地がどうなっているか気にはなっていたのですが、ガソリン不足もようやく解消し、泊まりがけで出かけました。
 
先祖代々の墓地は墓石が直接土から立ち上がっているためか、少し傾いた程度です。
 
他の2ヶ所の墓は三段重ね、四段重ねのせいでしょうか、総て倒れていました。
 
相馬市は震度6強、福島市は震度5強でしたから、震度が1違っただけで被害の差は大きいものがあると実感しました。
 
海岸寄りの津波の被災地は悲惨でした。巨大津波が根こそぎ破壊し、奪っていく恐ろしさを目のあたりにして、言葉を失いました。
 
相馬市と南相馬市の海岸沿いの被災地を廻りながら、あらためて、土地は生活の基盤だということを思い知らされました。
 
地盤沈下の対策も含めて、被災した土地はこれからどうなるのかが気懸かりです。
 
数百年に一度だとしても、巨大津波におそわれる危険性のある土地で人間が生活をすることは、そもそも間違いなのではないかと、つくづく思いました。
 
福島原発の放射性物質流出の影響も深刻です。このまま流出が続けば、周辺地域は人の住めない土地になってしまう可能性が大です。
 
人の住めない土地が、日本の中に出現することなどは、それこそ、想定外のことです。
 
人が住めないだけでなく、周辺にリスクを撒き散らす土地は、どう評価すべきなのでしょうか。
 
存在するだけで周辺に害を及ぼす土地は、マイナスの価値しかありません。
 
マイナスの価値しかない土地は、マイナス500円/㎡とかマイナス5,000円/㎡ということになるのでしょうか。
 
このマイナス分は、東京電力なり政府が、周辺住民に毎年払い続けるということになるのでしょうか。
 
不動産鑑定評価の世界にも「想定外」のことが起こりつつあります。
アーカイブ
ブログ内検索
プロフィール
HN:
高橋雄三
性別:
男性
職業:
不動産鑑定士
自己紹介:

アクセス解析
忍者ブログ [PR]